跡見学園の学祖・跡見花蹊(あとみかけい)。
4歳から両親に書を習い始め、少女期に入ると
寺子屋で学ぶだけでは満足できず、12歳の頃に
円山派の画家・石垣東山に入門して絵画を学
ぶ。そして17歳で京都に遊学し、詩文、書法を
頼山陽門下の宮原節庵に、絵画を円山応立、中
島来章に学び、さらには画家の日根対山にも師
事して画域を深める。
およそ2年の修行を終えた花蹊は、1859年に父
の私塾の経営を受け継ぎ、独力で女子教育に着
手する。
その後、江戸城が皇居に定められ、皇族・華族の東京への移転が相次ぐ中で、花蹊も1870年東京に移住し、私塾を始める。
すでに京都で女子教育者として名声の高かった
花蹊のもとには、多くの上流家庭の子女が集ま
って教えを受ける。また、赤坂御所において女
官の教育にもあたる。
「新時代に後れをとらぬ女子の教育こそ、教育
家として努力すべき道である」ことを持論とし
ていた花蹊は、勉学を望むものには広く門戸を
開放する。
1875年に「跡見学校」を開校。実質的な跡見女
学校のスタートを切る。
跡見の特徴の一つが、生徒の多くを学校敷地内
の寄宿舎に収容し、家族的なふれあいの中で日
常の生活を送らせたことにある。生徒はこの寄
宿舎を「お塾」と称し、花蹊を「お師匠さん」
と呼ぶ。
当時、女学校といえば女子師範学校の前身であ
る竹橋女学校と横浜のフェリス女学校があるく
らいで、跡見の独特な教育システムと、生徒が
着用する紫袴は大きな話題となる。
最近、江戸時代後期より明治に至る、女性の実
情を古文書などで学ぶ機会が得られた。
講師は女性の専門家であるが、意外にも当時の
女性の不実にも肯定的な参考資料を配布し講義
を進めている。
つまり、女性も男性も同じくらいの性欲もあ
り、間違いも男性に負けず犯していたと。
それを女性教育をもってあるべき姿の型にはめ
ていくその時代の流れを、古文書から知るとは
私も想像もしなかった。
古文書楽しい。