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いざ、永田町へ

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15年続けてきたSSAが、銀座から永田町二

丁目に移動する。

 

少し永田町の歴史を紹介しよう。

 

江戸の古地図に「永田馬場」とあり、昔、永田

氏を称する三軒が並んであったことに因む地名

とされる。

 

ただ、永田町二丁目は、かつては江戸城内であ

った山王日枝神社の鎮座地でもある。

江戸時代には、松江藩二本松藩などの屋敷地

であり、その後日枝前町、日枝神社境内が合併

して、現在の町域が形成された。

 

明治までは、国会裏の坂(山王坂)の入口付近

と、坂の中程に神社の鳥居があり、山王様の表

参道とされ、四代家綱公造営の国宝社殿(昭和

二十年五月の空襲で焼失)の周囲は、別当、神

主、社僧、社家等、奉仕者の邸や、門前町が描

かれている。

 

明治維新の際の神社制度の改革により、奉仕者

は離れ新しい住民を迎えたが、山王様は明治天

皇御東幸により、官幣大社の御社と尊崇された

ことは宮元の住民の誇りでもあった。


戦後の地名表示変更では、この伝統ある「永田

町」の名称を「永田」としたいと区役所からの

再三の要請にもかかわらず、譲らなかった結

果今日の町名が残った。さらに麹町、番町も、

「麹一」や「三番」にならなかったようだ。


また、首相官邸、国会議事堂、衆参両議院会

館、日比谷高校(旧東京府立一中)も永田町二

丁目にある。


そして二十年前から、官邸、日枝神社等周辺の

再開発計画が、二・二六事件の舞台であり、戦

後は山王ホテルであった跡地には、山王パーク

タワーが、また外濠通りと神社を通すエスカレ

ータ付きの赤坂山王階段が新設され、地区はま

ったく一変した。

 

その後、火災にあったホテルニュージャパン跡

プルデンシャルタワーが建設され、かつて

は、日本料理史に燦然と輝く陶芸家としても非

凡な才をみせた北小路魯山人の星が岡茶寮があ

った跡地に建てられたキャピトル東急ホテル

建替の計画もあり、今後もIT機器を駆使した

ビルの建替工事も一層進むだろう。

 

さあ、新生経済結社SSAの活動は如何に?