プロローグ:
WHO本部にて
時は昭和六十一年(一九八六年)十二月八日、こ
こはスイス・ジュネーブにある世界保健機構(WHO)本部、大会議室にはWHO関係者の他、報道陣など多くの人たちが集まっていた。
壇上に座っているWHO第三代事務局長のハル
フダン・テオドール・マーラーは、隣の席にいる大阪大学微生物研究所の伊藤利根太郎教授に
英語で語りかけている。
「いよいよ接種されるのですね」伊藤の手に
は、細くて小さな一本の注射器がある。
「はい。私は医師として、これまで何千回何万
回も注射を打ってきましたが、今回ばかりは躊
躇っています。
しかし、会長の強いご意思ですから」実は、伊
藤が手にしている注射器の中に入っている液体
は、WHOの熱帯病研究訓練特別計画(TDR)に
よって、ある伝染病を撲滅するために開発されたワクチンなのであるが、初めて生きている人
間に接種させるものであったからだ。
「WHOは多くの伝染病などの対策を行ってい
ますが、どうして会長は、この病気に関する撲
滅運動だけに、特に力を入れておられるので
しょうか?」
「会長には、この病気に対する特別な想いがあ
るらしいのです」
「どのような想いなのですか?」