人類みな兄弟姉妹.com

「日本」が好きになれる人が増えれば嬉しい・・・

遊女学の権威

f:id:jmk2020:20221102174035j:image

 

あの遊女学の権威、渡辺先生。

 

まさか、このような爽快な言葉を

述べられる人物であったことに驚く。

申し訳ございません。

 

やはり、こういう大人らしい大人に

なっていかないといけないと、、、

 

さて、人は面と向かって私には言わないが、

何となく空気と視線で判読できる。

「笹川さんはいつも、どうしてちゃんとした

服装をしているんですか」と、、、

 

答えは、簡単だ。

赤ん坊と大人は、汚くしようと思えば、

いくら汚くしても誰も言わないから、、、

 

若い人が汚い格好していても流行とか、

ファッションとかでも誤魔化せるし、

何となく似合っているように見える。

 

でもね、、、大人はもしそういう風に

カッコいい見えるとすれば、それは

もはや大人ではない。

 

卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ   

        (前略)
未来に向かう晴れやかなこの時に、諸君に

向かって小さなメッセージを残しておきたい。


このメッセージに、2週間前、「時に海を見

よ」題し、 配布予定の学校便りにも掲載した。

その時私の脳裏に浮かんだ海は、真っ青な大海

原であった。

 

しかし、今、私の目に浮かぶのは、津波になっ

て荒れ狂い、 濁流と化し、数多の人命を奪い、

憎んでも憎みきれない憎悪と嫌悪の海である。

 

これから述べることは、 あまりに甘く現実と

離れた浪漫的まやかしに思えるかもしれない。

私は躊躇した。

しかし、 私は今繰り広げられる悲惨な現実を

前にして、 どうしても以下のことを述べて

おきたいと思う。

私はこのささやかなメッセージを続けること

にした。
 

諸君らのほとんどは、大学に進学する。

大学で学ぶとは、又、 大学の場にあって、

諸君がその時を得るということはいかなること

か。

大学に行くことは、他の道を行くことといかな

る相違があるのか。

大学での青春とは、如何なることなのか。

 

大学に行くことは学ぶためであるという。

そうか。

学ぶことは一生のことである。

いかなる状況にあっても、 学ぶことに終わりは

ない。

一生涯辞書を引き続けろ。

新たなる知識を常に学べ。

知ることに終わりはなく、 知識に不動なるもの

はない。

 

大学だけが学ぶところではない。

日本では、 大学進学率は極めて高い水準にある

かもしれない。

しかし、 地球全体の視野で考えるならば、大学

に行くものはまだ少数である。

大学は、 学ぶために行くと広言することの背後

には、 学ぶことに特権意識を持つ者の驕りがあ

るといってもいい。


多くの友人を得るために、大学に行くと云う

者がいる。

そうか。

友人を得るためなら、 このまま社会人になるこ

とのほうが近道かもしれない。

どの社会にあろうとも、よき友人はできる。

大学で得る友人が、 すぐれたものであるなどと

いった保証はどこにもない。

そんな思い上がりは捨てるべきだ。


楽しむために大学に行くという者がいる。

エンジョイするために大学に行くと高言する者

がいる。

これほど鼻持ちならない言葉もない。

ふざけるな。

今この現実の前に真摯であれ。

 

君らを待つ大学での時間とは、いかなる時間な

のか。
学ぶことでも、友人を得ることでも、 楽しむた

めでもないとしたら、何のために大学に行くの

か。


誤解を恐れずに、あえて、象徴的に云おう。

大学に行くとは、「海を見る自由」を得るため

なのではないか。

言葉を変えるならば、「立ち止まる自由」 を

得るためではないかと思う。

現実を直視する自由だと言い換えてもいい。


中学・高校時代。君らに時間を制御する自由は

なかった。遅刻・ 欠席は学校という名の下で

管理された。

又、 それは保護者の下で管理されていた。

諸君は管理されていたのだ。


大学を出て、就職したとしても、その構図は変

わりない。 無断欠席など、会社で許されるはず

がない。高校時代も、 又会社に勤めても時間を

管理するのは、自分ではなく他者なのだ。 それ

は、家庭を持っても変わらない。愛する人を持

っても、 それは変わらない。愛する人は、愛し

ている人の時間を管理する。


大学という青春の時間は、 時間を自分が管理で

きる煌めきの時なのだ。

池袋行きの電車に乗ったとしよう。

諸君の脳裏に波の音が聞こえた時、 君は途中下

車して海に行けるのだ。

高校時代、 そんなことは許されていない。

働いてもそんなことは出来ない。

家庭を持ってもそんなことは出来ない。

 

「今日ひとりで海を見てきたよ。」


そんなことを私は妻や子供の前で言えない。

大学での友人ならば、 黙って頷いてくれるに違

いない。

 

悲惨な現実を前にしても云おう。

波の音は、 さざ波のような調べでないかもしれ

ない。 荒れ狂う鉛色の波の音かもしれない。


時に、孤独を直視せよ。

海原の前に一人立て。

自分の夢が何であるか。

海に向かって問え。

青春とは、 孤独を直視することなのだ。

直視の自由を得ることなのだ。

 

大学に行くということの豊潤さを、自由の時に

変えるのだ。 自己が管理する時間を、ダイナミ

ックに手中におさめよ。

流れに任せて、時間の空費にうつつを抜かす

な。

いかなる困難に出会おうとも、 自己を直視する

こと以外に道はない。

 

いかに悲しみの涙の淵に沈もうとも、 それを直

視することの他に我々にすべはない。


海を見つめ。

大海に出よ。

嵐にたけり狂っていても海に出よ。


真っ正直に生きよ。

くそまじめな男になれ。

一途な男になれ。

貧しさを恐れるな。

 

男たちよ。

船出の時が来たのだ。

思い出に沈殿するな。

未来に向かえ。

別れのカウントダウンが始まった。

忘れようとしても忘れえぬであろう大震災の時

のこの卒業の時を忘 れるな。


鎮魂の黒き喪章を胸に、今は真っ白の帆を上げ

る時なのだ。

愛される存在から愛する存在に変われ。

愛に受け身はない。

 

教職員一同とともに、 諸君等のために真理への

船出に高らかに銅鑼を鳴らそう。


「真理はあなたたちを自由にする」

(Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ ヘー アレーテイア エレウテローセイ ヒュマース)・ヨハネによる福音書8:32


一言付言する。

歴史上かってない惨状が今も日本列島の多くの

地域に存在する。 あまりに痛ましい状況であ

る。 祝意を避けるべきではないかという意見も

あろう。

だが私は、 今この時だからこそ、諸君を未来に

送り出したいとも思う。

惨状を目の当たりにして、私は思う。

 

自然とは何か。

自然との共存とは何か。

文明の進歩とは何か。

原子力発電所の事故には、科学の進歩とは、何

かを痛烈に思う。

原子力発電所の危険が叫ばれたとき、私がいか

なる行動をしたか、 悔恨の思いも浮かぶ。

救援隊も続々被災地に行っている。

いち早く、中国・韓国の隣人がやってきた。

アメリカ軍は三陸沖に空母を派遣し、ヘリポー

トの基地を提供し、 ロシアは天然ガスの供給を

提示した。 窮状を抱えたニュージーランドから

も支援が来た。 世界の各国から多くの救援が来

ている。

地球人とはなにか。

地球上に共に生きるということは何か。

そのことを考える。


泥の海から、救い出された赤子を抱き、 立ち

尽くす母の姿があった。行方不明の母を呼び、

泣き叫ぶ少女の姿がテレビに映る。 家族のため

に生きようとしたと語る父の姿もテレビにあっ

た。

 

今この時こそ親子の絆とは何か。

命とは何かを直視して問うべきなのだ。


 今ここで高校を卒業できることの重みを深く

共に考えよう。 そして、被災地にあって、命そ

のものに対峙して、 生きることに懸命の力を振

り絞る友人たちのために、 声を上げよう。

共に共にいまここに私たちがいることを。


被災された多くの方々に心からの哀悼の意を表

するととともに、 この悲しみを胸に我々は新た

なる旅立ちを誓っていきたい。


巣立ちゆく立教の若き健児よ。

日本復興の先兵となれ。

 

本校校舎玄関前に、 震災にあった人々へのため

義捐金の箱を設けた。(3月31日1 0時からに

予定されているチャペルでの卒業礼拝でも献金

をお願い する)


被災者の人々への援助をお願いしたい。

もとより、 ささやかな一助足らんとするもので

あるが、 悲しみを希望に変える今日という日を

忘れぬためである。

卒業生一同として、被災地に送らせていただき

たい。


梅花春雨に涙す2011年弥生15日。   

立教新座中学・高等学校
校長 渡辺憲司