次に伝えたいのは、「本物」について・・・
ものの本や雑誌には、「本物に触れることの大切さ」を
いとも簡単に書いている・・・
でも、その文章を書いているライター自身も、
本当のところ「本物」の定義もわかっておらず、
どういう人物を「本物である」と言うのかも
わからないで言葉だけを並べている・・・
恐らく彼らは、「リアルな本物」にすら、出会ったこともないはずだ。
そういうなかで、
僕も親交がある、なべおさみさんの著書には、
本物に出会ってきた人だからこそ、
「感じるもの」
「言い切れるもの」
が、そこには間違いなく存在している。
なかでも、僕たちでにも比較的わかり易い
エピソードが書かれている部分があるので紹介しよう・・・
昭和28年、日本初のジャズ喫茶になべおさみさんが、
出かけたときのことあった。
隣り合わせたナゾの紳士が、こんなことを教えてくれたそうだ。
【世の中すべての物はね、3つのものがあると思うことだよ。
1つ、本物。2つ、偽物。3つ、これが見分けにくいが似非物(えせ)】・・・
それ以来、ナゾの紳士から言われたことの視点をなべさんは、
人生の羅針盤にしていく。
たった一度の出会いであったあの紳士のことを、
しばらくしてからなべさんは、雑誌の写真を見て知った。
実は、僕がなべさんと初めてお会いしたのが、とある会合・・・
それも大人数の出席する会合ではあったが、同じ丸テーブルであった。
さらに、白洲のお孫さんにあたる、信哉さんもまた同じテーブルであった。
白洲次郎さんが1902年生れで、大叔父が1899年生まれを知って、
「あの時代は、どんな時代だったのであろうか」と回想できるのも、
ある「歴史」という教養をかじっていたからこそ、感じれることだと僕は思った。
このように、
本以外で教養を積み重ねていくには、
「人から学ぶ効用」は、想像以上に
経験上小さくないと、僕は考える。
問題は、学ぶ張本人が、
「この人と付き合うと、自分がどのように変身できるか」を
イメージを持てるかだろう・・・
「直感力」・・・
これも人間が「小さい」と、素直になれずに「俺流」という
ちっぽけな池の中から、飛び出すことができないのだ。
言い訳
負け惜しみ
おらが大将
子供のように偉ぶることしか、芸当がないのだ。
本物は、意外と地味で、謙虚で、静かな人たち・・・
もし貴方が、そういう相手と出会った時に・・・・
感じ取ることができる「勘どころ」をもっているだろうか?
または、「怖そう、得体が知れぬ」と逃げてしまっていないだろうか?